
↑再建された二代目店舗、先代49歳、格21歳でした。
下手すると大学をやめそのまま蕎麦屋のスタッフとして再建の一員にと覚悟して急遽帰省した私でしたが、第二次大戦をクリアした先 代は、全焼などに打ちひしがれるどころか、家族・スタッフの心を奮い立たせ、再建の途につきます。
昭和29年から、裸一貫で蕎麦屋を開業し、その土地建物取得費用の銀行返済も終わろうかという頃に火災全焼の憂き目にあいながらそれを乗り越え、新店舗で再建を果たした初代・昇。
類焼し全焼したにもかかわらずひるむことなく突き進む先代の凄味を目の当たりにし、東京に戻るのでした。
←その店内は、暖簾をくぐると右に帳場と厨房、左にテーブル席が。
椅子は背もたれもない時代でした。
青を基調にした内装は、先代はよく自慢したものです。
→
縄のれんが流行した時代で、それをくぐり玄関入ってすぐが大女将が陣取る帳場。
百円硬貨が登場し始めた時代でした。
二階も、一階同様のテーブル席で、少しでも多くのお客様をと、テーブルが今では信じられないくらいの小さなサイズです。
←まだ、蕎麦屋で粋にそば屋酒の世界などは一般的でない時代でした。
メニュー表が壁掛けで、もり・かけ90円と表示されております。
カレーライス、チャーハンなどもメニューにあります。
まだ、出前が売上の五割を占める時代だったのです。しかし、その先代の奮闘をあざ笑うかのように時代は容赦なく、小樽の街は寂れていく時代に突入していたのです。
30年代中頃から40年代にかけ、札幌の急成長と反比例して小樽の経済的ポテンシャルは下降します。
18あった都市銀行は、北海道拓殖銀行と三井銀行小樽支店の二行を残し撤退と札幌移転し、北海道シェアの半分を占めていた小樽の繊維業界は5%に転落し入船町の繊維問屋街は廃業・倒産の嵐で寂れます。
「斜陽のそのまたどん底」と小樽の人は嘆いたものです。
小樽市と経済界はそれを何とか乗り越えようと復活のテコを公共事業に求めます。
それが、近代港湾機能としては時代の役割を終え下水道処理場などなくヘドロが堆積し悪臭を放つ悪化した環境の小樽運河を埋め立てて、札幌圏とのネットワークを希求する「6車線札樽バイパス建設事業」であり、もう一つが「小樽駅前地区の再開発」事業でした。

→




