「先代が亡くなり、店は全焼し、『籔半』は坂を転げ落ちるようだ。」
と先代の仏壇の前で嘆く大女将に、励ましの声や手紙がお客様から頂きます。ご近所の敬虔なクリスチャンのお客様から、
「早く再建し、世間から『焼け太り』と言われるくらいの店づくりを。」
と叱咤激励されます。
以降、スタッフ・ミーティングでは、
「世間様から焼け太りと言われるくらいの中身のある店づくりを」
が合い言葉になります。「先代があの世に自分が作った店を持って行ってしまったのだ。
先に逝った知人・友人・お客様と今頃あの世に持っていった
店で。でにぎやかにそば屋をやっている。
二代目のお前さんは、先代の築いた店をただ守るのではなく、
自身の思いのたけの店をこれから造れるのだ!
そういう天の声だ。」
と、初代・昇の従兄弟、倶知安在住の画家・小川原脩氏が焼け跡に駆けつけてくれ、二代目に身にしみる言葉をかけてくれたのです。「俺は小樽運河保存運動で徹夜続きで旋盤をいじって指先を切
断し、それを契機に指先をお客様に見せる喫茶店を止め、木
彫で生きる道を決断した。
お前もそうすれと促した。
親爺さんがあれほど苦労して築いた店を、全面改築などする
勇気は息子は仲々出来ないものだ。
そう思えば、新しいお前らしい蕎麦屋を作ればいい。
災い転じて福となす、だ。」
と、小樽運河保存運動で共にスクラムを組んだ友人が言ってくれます。そして、小樽運河保存運動をともに繰り広げてきた小樽運河を守る会やポートフェスティバル実行委の仲間や「小樽夢の街づくり実行委員会」の仲間も駆けつけてくれます。
皆、仕事を休み、ポートフェスティバル開催準備の再現のように、真冬の寒い中、建築の仕事をするメンバーの指示のもとチームをつくり、焼け跡建物の店内片付けから、消化作業で濡れた事務室の焼けこげた書類の乾燥と整理、家族の私物や写真の乾燥・整理、運動の資料等の乾燥・整理と、大人数でやってくれたのです。
女将はその仲間の暖かさに涙します。
蕎麦屋の同業仲間も、後片付けにと駆けつけてくれます。
が、ポートフェスティバル実行委チームの手際よい作業を、ただ見守るだけで、
「籔半は、いい仲間・友人がいる。
俺のところで万が一出火しても、後片付けがこうも多く
の友人で見る間にされていくなどない。
籔半がうらやましい 」
と感心してくれた言葉が、今でも蘇ります。こういう、親類、仲間、町内の人々に声がけを頂いての、籔半再建の道を二代目は突き走ります。
そして、そんな私を更に奮い立たせてくれたのは、多くのお得意様・お客様、同業者や関係商社の皆さんの早く再建せよ、という励ましの言葉でした。スタッフは、普段営業しているときは仲々いけない札幌の接客の評判高いお店巡りをし、レポートにし、ミーティングし、自ら接遇マニュアルをつくり、店のオープンにむけ準備をします。
二代目は、そんなお客様、スタッフに背を押され、新店舗づくりに奔走します。ところが、永年のお得意さま、先代社長の友人、多くの人々に励まされ再スタートを目指している最中に、小樽市富岡町の回船問屋の豪邸「伍楽園・旧金澤友次郎邸」が残念ながらマンション会社に売却され、このままではただ無惨に解体される事態になります。
↑写真:安達治氏
その情報を持ってきたのは小樽運河保存運動での友人・駒木定正先生で、二人で仲間に呼びかけ、現地保存に奔走いたします。
↑写真:安達治氏
が、 何分解体工事日程が決まっており、2ヶ月現地保存の方策を求め奔走しますが、しかし、 万策つき、弊店の新築工事に内部部材を移築する案が浮上します。
意を決し、所有者・岡田愛子氏に相談いたします。
そして、岡田愛子氏の御厚意を得て了解を頂きます。母屋部分の黒檀や紫檀
樹齢数百年の赤松
濡縁の欅や杉丸太
座敷の彫刻欄間や皮付丸太の格天井と手割柾葺の化粧天井
土台の御影石や瓦から戸袋から板戸
移築可能な母屋部分の部材を解体・移築・再生するプランの誕生です。
先代が旧「割烹・日乃出」を保存再生したように、二代目は旧金澤友次郎邸の解体・籔半への移築に、邁進いたします。 ( 注:この、「伍楽園・旧金沢友次郎邸」の解体・移築の顛末は、別項、「旧金澤友次郎邸解体・移築顛末記」をお読みください。 )
新店舗建築途中、業界・取引商社・知人友人・お客様にご心配・ご意見を頂きました。
先代、二代目と親子を見てきた製粉会社の幹部氏は何度も建築現場に足を運んでくれ、
「息子は親を乗り越えたく、どうしても親よりいいもの、大きいもの
をつくろうとして、失敗・廃業するのを数多く見てきた、まずは拡
張できるようにして、平屋でいいからな。」
と。
ただソバ粉を納品する関係だけでは頂けない暖かい言葉でした。
が、住居もあわせて三階建ての店舗が次第に形になり姿を表すと、様子を見にこられたその製粉会社幹部氏は、絶句し、頭を振り、帰られました。 また、
「親より大きな店をつくって、数ヶ月もつか」
とも、同業者に言われました。
が、二代目には、夢と情熱がありました。
そして、小樽運河保存運動を十年やって来た経験からする、来るべき観光小樽という時代の予兆、確信がありました。
地方の時代、材質感の時代、本物を求める時代、小樽はそれにぴったりの街であること、小樽に多くの人々が来訪され賑わいを取り戻す、そんな時代の到来への想いと確信でした。昭和61年8月7日、新店舗・籔半は無事竣工します。
↑写真:安達治氏
弊店の新規オープンと同時に、小樽はレトロブーム・北海道ブーム・バブルを背に受け、観光都市の道をひた走り、弊店もそれを受け「宴会の出来る蕎麦屋」としてご愛顧を得、今では「ソバ屋酒の出来る店」としてご愛顧を頂く蕎麦屋として今日に至ります。
以来20有余年なります。
多くのお客様にご来店をいただいております。なにより嬉しいのは、
「長崎屋の地下街にテナントとして入居し
ていたら、こういう小樽らしい店づくり
・蕎麦屋づくりは、できなかったな。」
というお客様のお声掛けを多々頂くことでございます。先代の時代は、旧「割烹・日乃出」を再生再活用しても、すぐ繁盛する店になるかどうかわからない、先行き不透明な斜陽の時代でした。
にもかかわらず、後継を嫌い東京から帰樽しない二代目を無理に呼び寄せず、「屋根がなければ蕎麦屋でない」という言辞を二代目から引きずりだし、その言葉に想いを掛けて、長崎屋地下街に権利者でありながら入居せず、現在地に店舗を移設し開業した先代の深慮。
それがあったればこそ、今、そのようなお客様の言葉掛けを頂くわけで、ことのほか嬉しい限りでございます。
昭和六一年三代目店舗開業以来、はや20余年が立ちますが、土日は店の前庭まで行列されますお客様のご来店を頂いてございます。
ただただ、蕎麦屋冥利に尽きる想いでございます。



以来20有余年なります。





