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其の弐、静屋通り物語

gr_kitagaki さて、弊店が存する通りは、「静屋(しずや)通り」と呼ばれます。
 それは、第四代北海道庁長官・「北垣国道(くにみち)」の号・静屋(セイオク)に由来すると謂われます。
 ←明治中期の北垣国道
 北垣国道は(1836〜1915)、天保7年8月、兵庫県養父郡養父町能座村に生まれ、成人し北垣晋太郎となる。
  幕末の「生野義挙」に参加。
  戊辰(ぼしん)戦争の北越征討軍に参加し、新政府から認められたのが、官界に入る第一歩となりました。
 その後、元老院省書記官、熊本県知事、内務省書記官、高知県知事を経て、明治14年(1881)京都府知事になりました。

 

 

gr_biwako 在任中、琵琶湖の水を京都 市に引く「琵琶湖疎水」工事を完成させたことは有名で、その後の京都の開発に大きく貢献、のち北海道庁長官、拓殖務次官、貴族員議員、枢密院顧問官を歴任し、明治の官界で活躍した人物でした。

さて、小樽はというと、明治初期、弊店の場所は葦の生えた一面の谷地でした。

 

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 ↑上記地図は、明治8年の小樽の絵地図です。
 「Ironai」は現在の色内町、「Okobati」は現在の寿司屋通りを流れる於古発川、通称・妙見川のことです。

gr_enomoto ←が、あの「榎本武揚」と「北垣国道」は、この色内と於古発の両地区の将来的発展を確信し、現在でいうデベロッパー会社「北辰社」を創立します。
 大正・昭和から現在までの、小樽の中心市街地がこの地域ですので、二人の確信は当たったわけです。
 現在の市内中心部十万坪の土地を、当時、二〇円で払い下げてもらい、現在のJR小樽駅から港までの縦の線で現在の市街地を二分し、札幌側を北垣が、余市側を榎本が買い取り、町の造成をしたと謂われます。
 この小樽の中心部開発の功を讃え、北垣国道の号・「静屋(せいおく)と榎本武揚の号・「梁川(りょうせん)を、北辰社の面する通りと一本海側の通りに、すなわち、今日のJ小樽駅前・第3ビルの海側、朝日生命ビルの並び現・朝日新聞販売所あたりにその「北辰社」があったので、その前の通りを「静屋(しずや)通り」、その海側の通りを「梁川(やながわ)通りと名付けられた、と謂われます。

 今日でも、弊店の通り・「静屋(しずや)通り」と一本海側の「粱川(やながわ)通り」として、いまでも脈々と使われております。 大正9年4月1日、まだ小樽が「小樽区」であった時代に、区道「静屋線」「梁川線」と表記されており、大正11年8月1日小樽区から小樽市に市制になった時点で「市道」となってます。
 静屋通りの範囲は北は稲北交差点の縦通り(現・ツタヤ前の道々小樽臨港線)から、南は妙見市場向かいの三ツ山病院までです。

 

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 さて、昭和61年、焼失した弊店旧店舗は、後に触れます「金澤友次郎氏」が日本海の北前航路の回船業で財をなした明治の同じ時代に、小樽・高島・忍路場所のニシン漁の成功で栄華を極めた小樽三大網元の一人、祝津の白鳥家・白鳥永作氏が、別邸としてたてたものの付属建物だった、と謂われております。

↑旧白鳥家別邸母屋、「キャバレー現代」として使われ、平成13年廃業

 現在の弊店を含め、一帯が白鳥家の所有地だった、といわれております。
 その母屋が、弊店の1軒左にある「旧・キャバレー現代」さんの建物です。
 以下、この白鳥家の歴史を、「小樽歴史探訪」著者小野洋一郎から抜粋させていただきます。

 お屋敷風の趣、クラシックムードを売り物にしている、「キャバレー現代(平成13年廃業)」が使用している建物は、かつての鰊漁場・祝津(シュクツ)を代表する網元の一人であった白鳥家の別邸である。 祝津に凝った造りの住宅兼用の番屋を持ちながら、この辺りにも広大な土地、建物を保有していたのであった。

 白鳥家を祝津の単なる網元から小樽で多方面の事業主にまで持っていった人物は、本間家からでた養子・永作であった。
 永作は、羽後国の飽海郡酒田内匠町に、本間久平の長男として生まれた。
  安政二年(1855)に蝦夷地に渡来し、松前、厚田、浜益の各地を転々と渡り歩いて、漁場で働いたり、開墾に従事していた。
  その後、余市漁場請負人の林長左衛門の家に寄寓した。
  そこで人物を認められ、出張所があった祝津の漁場支配人として同地への定住を命ぜられたのである。
 その祝津には、漁業を営む白鳥喜四郎が在住し、喜四郎は、最初は刺し網を使用していたが、それでは漁獲量が少ないのでなんとかその打開策を模索していた。
 そして堀川松兵衛という人物と苦労して「建網」を制作し、鷹品場所請負人の西川徳兵衛にこれを見せ、その使用許可を求めた。
  その当時、松前藩では建網を使用することを禁止しており、そこで許可権限をもたない場所請負人は一年間を限ってその使用を黙認する。
  これが建網を用いた最初で安政四年(1857)の事であった。

 その翌年には喜四郎自身が箱舘(現在の函館)奉行所に出向き、正式に出願し、その使用許可を得る。
  慶応元年(1865)には建網の改良にも成功し、漁獲量は飛躍的に増大することになる。
 先に述べた本間永作は、明治七年この祝津の網元白鳥喜四郎の養子に向かい入れられたのである。

gr_m10_shiratori_bannya←写真は、旧白鳥家番屋、 所在地は、小樽市祝津3丁目191番地、建築年
明治10(18、77)年で、 木造1階建漁家で、 平成7(1995)年8月28日に小樽市指定歴史的建造物になっております。
 今では、小樽水族館で知られる、祝津(しゅくつ)地区は、北海道の初期漁村集落の様子を伝える貴重な地区です。
  海岸沿いに鰊漁家(にしんぎょか)の住宅、番屋、倉庫などが建ち並び 、丘には神社があります。
  旧白鳥家番屋は、主人と漁夫の住居部分が大屋根で一体になっています。
  主人のすまいには、床の間や欄間(らんま)を設け、和風住宅の特徴を示します。
  漁夫の寝床(ねどこ)は、吹き抜けに巡らされていました。
  大工は、大棟梁(おおとうりょう)が小林秀作、脇(わき)棟梁が土門倉次です。
  平成7年に料理店 ・「群来陣」として再利用され、翌年、小樽市都市景観賞を受賞しています。
        ・・小樽市ホームページから抜粋。

 
 幕末から明治にかけ建網使用者の増加と漁獲量の増大は、鰊の「搾り滓」製造業者を増加させ、燃料とする薪の需要の増大とその欠乏を招き、開拓使はそれへの対処として石炭使用の器械竃を考案・試作し一般に下付し、その適否を調べさせることになる。
 白鳥永作は早速その役目を希望、十分に調べあげてその不完全さを知り、改良の方法を案出した。
 明治一四年に改良竃を制作することを出願し、許可を得た。
 この年、養父白鳥喜四郎が病没し、養子永作が家督を継いでいる。
 これ以後、永作は漁業の傍ら改良竃の更なる改良と製作に励み、かくして自ら鰊の搾り滓を製造するとともに、製作した改良竃を同業者にも販売するようになる。
 その一方、永作への村人の信望は厚く、明治十五年に祝津村総代に選出され、高島村総代にも推薦されるまでになる。

 永作は、明治十九年に「白鳥商店」を設立、その営業するところ海産物委託問屋業、肥料販売業、倉庫業、担保貸付業などで、多方面にその事業を拡大していった。
 明治二一年には、北海道庁から鱈漁法改良試験嘱託に任命されており、本業である漁業の方面も決しておざなりにはしなかった。

  永作の保有した、
  宅地2,133坪、
  耕地13万6,434坪、
  海産物の乾し場が1万坪を越えており、
  漁場は11カ所、
  建網は二八ヶ統、
  (1ヶ統は幅五四メートル、奥行無限大の漁場使用権)
  漁船は大小八四隻を所有し、
  毎年漁場で使役する雇夫二四〇名
ほどであった。
 その資産と漁業の経営規模はいかに大であったかが窺える。

 永作死後の明治三九年一二月、白鳥家の一族は、これまでの白鳥商店を会社組織にしようと資本金十万円をもって白鳥合資会社を色内町に設立し、「白鳥家別邸」の建築はその三年後の明治四二年のことという。

    ・・・出典:「小樽歴史探訪」  著者:小野洋一郎  共同文化社刊。

gr_takuboku そして、弊店のお隣の「本間内科」さんの場所は、かつて「石川啄木」が勤務した「小樽日報社」跡です。 「小樽日報社」は、議会議員の白石義郎氏が明治40年10月に創立し、野口雨情や石川啄木が発刊に加わりました。
 小国露堂の紹介で、札幌の北門新聞から明治40年9月27日小樽日報社に入社するため来樽した「石川啄木」は、野口雨情とともに三面記事を担当しました。
 当時、小樽に姉が嫁いでいたこともあって、函館から家族を呼び寄せ、新しい土地小樽での仕事に情熱を燃やしましたが、主筆の岩泉江東とことごとく意見が対立し、わずか10数日で小樽を去った有情の後を追うように、同年12月12日退社し、明治41年1月19日小樽を去っていきました。

gr_sei 又、向かいの駐車場の奥に見える瓦葺きの石蔵は詩人で評論家・『日本文壇史』で名をなす「伊藤 整」の、小樽商大時代生涯の友とした川崎昇氏の下宿先「衣斐質屋」さんの石蔵です。
  毎日のように伊藤整が訪ねてきていた、と衣斐千代さんの先代さんは生前おっしゃっていた、とのことです。

 

gr_takiji このように
新天地を求めた榎本武揚が濶歩し、
石川啄木が苦汁の青春時代を過ごし、
伊藤整が散策し、
小林多喜二が弾圧下で小説をしたためた、
という歴史とあじわいのある小樽の町並みとともに、日本海の海運業で財を成した回船問屋の邸宅がもつ独特の落ち着きのなかで、そして華やかな時代の熱気やエネルギーをたっぷりと吸い込んだ小樽軟石造り蔵座敷で、昔変わらぬ日本の風味「お蕎麥」を召し上がっていただけたら、というのが弊店の願いでございます。