弊店の現店舗は、昭和61年小樽市富岡一丁目にあった 、
『伍楽園・旧金沢友次郎邸』
の売却・解体にともない、 所有者の岡田愛子氏 の御好意を得て、母屋部材を移築し、再利用し建てられました。『伍楽園・旧金沢友次郎邸』は、歴史的建造物の宝庫といわれる小樽でも滅多にない明治時代の豪邸でした。
日本建築学会北海道支部でも、北海道の代表的な歴史的建築物として評価し、リストアップしていた和風建築でした。
和風母屋に隣接する木造洋館の解体時には、床のカーペットの下から、大正時代の小樽港の汽船の出入が記載された港湾関係の業界新聞などが出てきたことでもわかりますが、『伍楽園・旧金沢友次郎邸』は、明治37年(1904年)、函館・福島町出身の回船業・金澤友次郎氏によって 小樽別邸として建築されたものでございます。北前船 「北前船」が、交易船として日本海に踊り出るのは18世紀後半ごろからである。
当時の日本は、幕府は江戸に置かれていたが、経済の中心は大阪、京都などの、いわゆる上方と呼ばれる地域でした。
蝦夷地、現在の北海道や東北からの物資は、もっぱら福井の敦賀、小浜の港を経由して上方に運ばれ、敦賀、小浜から陸路を経由して琵琶湖に入り、琵琶湖の交易船「丸子船」に荷物を載せ、京都、大阪へ運ばれたのです。
しかしこのルートは、海と陸を何度も経由することから、荷物の損傷や、運賃コストがかさみ、新たなルートの開拓が追求されます。
それが、山陰から瀬戸内を回って大阪に入る、「西廻り」航路だったのです。
そしてこの西廻り航路に最初に挑戦したのが加賀藩三代藩主・前田利常で、1639年加賀藩の蔵米を大阪に運ぶため、試験的に実施し、この成功を機に前田家は、1650年代に入って大阪へ大規模な蔵米輸送を行います。
以来、西廻り航路は日本海交易の主流となっていくのです。
明治後期の日本海沿岸の航行は、この 『北前船』 全盛の時代でした。
鰊漁 北前船とその船主は、幕末から明治にかけて西蝦夷地の日本海沿岸での莫大なニシン生産を背景に、黄金時代を築き上げます。
しかし全盛をほこった北前船も、新しい交通体系として登場した「蒸気汽船」にその位置を奪われ、多くの北前船の船主は蒸気船への転換・導入を成しえず、新興勢力の「汽船会社」に、経済的位置を奪われていきます。金澤氏が、多くの北前船の船主と同じ経過を辿ったかどうか、今の私どもには推量る手立てはありません。
が、この小樽の旧金澤氏別邸の建築後、氏は当時の日本ですら滅多にみられない『動物園』の経営に乗り出します。
が、近隣の山火事で大被害を被り、次いで『植物園』経営に転換致します。
↑旧・金澤植物園の入口のゲート写真、明治37年10月23日の日付が記載されている。
↑旧・金澤植物園の園内写真、「小樽金澤植物園」と印刷されているので、宣伝用絵はがきか、と。
その開園式は、明治37年10月24日、園田北海道庁長官を始め、各高等官、函館商業会議所議員等を招待して挙行され、来会者七〇〇人、茶会、踊り、住吉踊り、落語等の余興や、園内各所に『サッポロ』・『恵比寿』の各ビアホールを始め、団子屋、弁当屋、オデン屋、蕎麥屋が並び、間断なく花火を打ち上げるというお祭りさながらの式だった、と当時の新聞で報道されました。
しかし、丁度同じ日、『旧金澤友次郎邸(伍楽園)』から一望できる小樽公園では、日露戦争の戦死者追弔法会が催され、後日、当時の小樽新報という新聞では
『悲哀の山、歓楽の山』
という大見出しで、批判の弁を受けたのも事実でした。そのくらい金澤友次郎氏は、豪腹な人物だったのでしょう。
この植物園も後には閉鎖されてしまいますが、その敷地は現在観光名所の「富岡カソリック教会」のあたりまでという広大なものであったと今でも小樽の古老の間では語りつがれております。
『旧金澤友次郎邸(五楽園)』は、解体撤去される時点では、 約四百坪〜五百坪の敷地があり、歩道から見上げても母屋の玄関も見えないほどでした。
伍楽園・旧金沢友次郎邸は、
木造平屋(母屋)一棟、
煉瓦蔵二棟、
木造和洋折衷洋館一棟
の合計四棟で構成されておりました。
母屋は数寄屋作りで、
八畳間の床付き座敷二室、
六畳座敷一室、
そして六畳仏間一室
の合計四室からなっておりました。
竹床柱の平書院のある八畳座敷は、杉柾目と赤色天井材を交互に対比させる豪華な造りで、棹縁天井や彫刻欄間が見事でした。
六畳仏間は、当時の建築を請負った棟梁、大工職人の心意気がもっとも表現されており、皮付き丸太の格天井の一枚一枚が、杉材を様々に切取った板面の配置工夫で見事に構成されておりました。
玄関の腰板は、樹齢数百年の杉材の一枚物が張られており、敷石は「打ち水」をすると真っ青に変る『青石』(北前船が日本海を航行する場合のバラストとして利用され、北海道の港に到着すると石材として売払われたと謂われております)が敷き詰められておりました。
↑写真左母屋の濡縁(縁側)は、厚さ二寸のケヤキ板を敷き詰め、樹齢三十〜四十年の杉丸太が柱や小屋組みとして数多く使用され、その土台石は全て御影石という豪華なものでした。
御不浄にまで、普通は床の間や書院違い棚などにしか使用されない高価な紫檀、黒檀などの銘木ががふんだんに使用されており、素晴しいタイルが貼られておりました。
木造和洋折衷洋館は、シンプルで大胆な漆喰蛇腹が見事で、当時のステータスシンボルである大理石製の暖炉があり、その暖炉を飾るビクトリアンタイルデザインもすばらしいものでした。
母屋の西側と北側には、それぞれ煉瓦蔵があり、西側の煉瓦蔵には、その内部には床の間付の「隠れ座敷」があり、主人が親しい友人とだけの遊交の場として利用したと謂われております。
北側の煉瓦蔵はのちの所有者、奥山家の手によって大正九年に建造され、当時としては最新流行の鉄製シャッターが窓の鉄扉がわりに設置されており、代々『旧金澤友次郎邸(伍楽園)』の所有者は『旧金澤友次郎邸(伍楽園)』そのものを大切にされたあとがうかがわれるものでした。
岡田与作吉氏の兄弟で、長男の岡田市松氏は『ヤマオ岡田』の屋号で釀造業を経営し、『巴里(トモエサト)』という銘柄の日本酒を製造販売し、その日本酒は当時の顧客に『パリ』と呼ばれるほど親しまれたという事です。
現在でも販売されている、日本酒『千歳鶴』もヤマオ岡田家で初めて製造販売された今日に至るものです。
次男の岡田重次郎氏は、小樽の歴史ある卸問屋マルヨ野口家に奉公し、後に旭川のマルヨ野口家を創設された人物という事であります。明治中期から大正にかけて、北の港湾都市としてめざましく発展した小樽、その港を一望する富岡(当時は小樽で名をなした商人は競って、港を一望できる水天宮神社のある丘に、そしてそこが手狭になると駅裏の小樽の街を一望できる丘を「富岡」と名付けて豪邸を建てたといわれます)に富豪・金澤友次郎氏が建てた『旧金澤友次郎邸(伍楽園)』。
この歴史ある素晴らしい『旧金澤友次郎邸(伍楽園)』が売却され、跡地にマンションが建設されそうだという話を友人の駒木定正氏が知らせてくれたのは、昭和61年1月19日の事でした。
・・ところが、この知らせの一週間前、昭和61年1月11日早朝、弊店は火災で石蔵一棟だけを残して全焼してしまっていたのです。
・・火事の後始末もまだ途中の頃でした。
先代の一周忌直前の、昭和61年1月11日早朝、弊店は火災で石蔵一棟だけを残して、全焼してしまいます。
風がなく、煙はまっすぐ昇り、それを見て、多くの仲間・友人・お得意様・関係商社の皆さんが駆けつけてくれました。
隣家には類焼しないで済んだのが、何よりも不幸中の幸いでした。
消化活動が終わり、消防隊員が引き上げたあとに再出火しないよう、焼けた屋根裏にある積んだまま焼け残った木製の蒸篭漆器を、雪のなかに一枚一枚投げ捨て、結局数百枚もの「蒸篭」が投げ落とされる作業が、続きました。
それを見て目に溢れるものがありました。
先代が私に常日頃、「もう、お前の代で、そば打ち用練り鉢は買わなくていい。
素晴しい漆塗りの練り鉢を3台、漆が落ち着くよう寝かせてある。
木(モク)の漆塗り蒸篭も、1セット100枚を3セット同じく漆が落ち着くよう寝かせてある。
これを、1セットづつ順繰りに使用し、漆器屋に塗り直しに回せば、お前の代は、今使用している分もあわせれば、木(モク)の漆塗り蒸篭は買わないでいい。」と、自慢げに言っていた漆器類・蒸篭類だったのです。
蕎麦屋は木(モク)の漆器類は、購入してすぐは使いません、塗られた漆が暴れないよう充分寝かせて漆を落ち着かせてから初めて使用します、そうすると漆もすぐはげ落ちたりしないわけです。
出火当初、富岡の自宅から駆けつけた大女将は、「隣家に類焼がなく、家族全員無事だったのだから、跡は近所の皆さんにお許しを得て、もう一度お前が再建すればいいのだから、しっかりしなさい。」
と、元々建築大工・棟梁の娘です、先代と苦労を共にしてき気丈にそう言ってくれます。
が、しかしそこは大女将とはいえ、母親であり妻であり、少し落ち着きを取り戻すと、「先代はあんな元気だったのに、突然逝去し、その一周忌目前に今度は店が全焼する、籔半は坂を転げ落ちているようだ。」
と先代の仏壇の前で寂しげに呟きます。
そんな私達家族を奮い立たせてくれたのは、多くのお得意様・お客様や近隣町内の皆さん、同業者や関係商社の皆さんの「早く再建せよ」、という励ましの言葉でした。
とりわけ、小樽運河保存運動をともに繰り広げてきた小樽運河を守る会やポートフェスティバル実行委の仲間の、心強い励ましでした。
皆さん会社の年休をとり、ポートフェスティバル開催準備の再現のように、真冬の寒い中、チームをつくり、焼け跡建物の店内片付けから、事務室の書類の乾燥と整理、家族の私物や写真の乾燥・整理、運動の資料等の乾燥・整理と大人数でやってくれたのです。
女将はその仲間の暖かさに涙します。蕎麦屋の同業仲間が後片付けにと駆けつけてくれますが、ポートフェスティバル実行委チームの手際よい作業をただ見守るだけで、
「籔半は、いい仲間友人がいる。
俺のところで万が一出火しても、後片付けがこうも多くの友人で見る間にされていくなどない。
籔半がうらやましい 」と感心してくれた言葉が、今でも蘇ります、そう友人や仲間が私の勲章であり、資産なのです。
さて、『旧金澤友次郎邸(伍楽園)』の売却・マンション建設の報を知らせてくれたのは、その小樽運河保存運動の仲間、『駒木定正』氏でした。
当時氏は、小樽工業高校の建築史の教諭(現在は、北海道職業能力開発大学校准教授)で、当時日本建築学会北海道支部歴史意匠委員をつとめ、小樽市内外の歴史的建造物の調査・研究を続ける一方で、私とは毎年運河周辺で開催されるポートフェステバルの創生期からの仲間であり、小樽運河保存運動の仲間でもありました。
駒木氏は、『旧金澤友次郎邸(伍楽園)』を以前から調査対象としていた関係から、所有者の岡田愛子氏に保存を訴えたところ、逆に「何とか残す方法はないものか」と相談されてしまいます。
早速、運河保存運動のスタッフやポートフェスティバルのスタッフに召集がかかり、ミーティングが何度も持たれます。
まず、しなければならない事は、『旧金澤友次郎邸(伍楽園)』がその現地で保存され、できれば再利用される事であり、悪くても公的機関による移築と全面保存という手立てを何とか講じれないかという事でした。
しかし、事は急を要します。
というのも、所有者の岡田愛子氏とマンション業者間ですでに売買の「仮契約」が交わされていたからです。
弊店はというと、いまだ火事以後の後始末に追われ、新店舗の設計という時期でもありませんでした。
雑務に忙しい私を横目に、駒木氏の獅子奮迅の活躍が始ります。
私はその駒木氏に付いていくだけです。
色々なプランがのぼりました。
まず、現地保存の手だてを模索します。
私は、小樽商大に近く、多くの小樽商大生の下宿先だったこともあり、小樽商大の教職員用のクラブハウスにと、商大に声がけします。
しかし、商大も行政、文部省予算組みが必要で、当然、時間的に不可能となります。
一方、駒木氏は、小樽の歴史的建造物が数棟移築・保存されている札幌市野幌の北海道開拓記念館・開拓の村研究員・『小林孝二』氏に相談にします。
しかし、北海道開拓記念館・開拓の村への移築・保存が決定されたとしても、予算計上から解体移築工事までには通例でも数年かかるという事で、時間的制約がネックになります。
小林氏は、「行政上時間的制約がありすぎて北海道開拓記念館・開 の村への移築は無理だ。
が、もし何かの形で保存できる事態が生れれば、優れた「棟梁」を紹介する」と約束してくれます。
しかし、全面保存の手立ての有力な道が閉ざされてしまいます。
次は、小樽市の歴史的建造物保存審議会への働きかけです。
しかし、ここでも予算的・時間的制約がネックとなり、結論はでず、公的機関による「保存再生」の道は諦めざるを得なくなりました。
このままでは、『旧金澤友次郎邸(伍楽園)』の売買「本契約」、解体、撤去、マンション建設工事着工の事態を指をくわえて見ているだけという、最悪の結果しかならないというアセリが駒木氏にも、私にも出てきます。
決断の時がきます。
意を決して、駒木氏と二人で岡田愛子氏に「ただ、『旧金澤友次郎邸(伍楽園)』が解体撤去されるくらいであれば、部分的にでも保存再利用がされる方がベターではないだろうか、一部分でも再利用でき たら。」
と、二人の気持をぶつけます。
岡田愛子氏は、「売却後札幌に転居するが、小樽を訪ねるときにかって住居した部屋の一部でも残り、そこで昔を思い出せるのなら。」
と、快く了解していただきます。
ここに至ってはじめて、
弊店新店舗 『旧金澤友次郎邸(伍楽園)』部材移築計画
がスタートする事になります。
「『旧金澤友次郎邸(伍楽園)』再利用プラン」全体のアドバイザーは、当然駒木氏です。
設計は、駒木氏と同様、小樽運河保存運動やポートフェスティバルでの十年来の友人でる、札幌・建築事務所アトリエ391(現在、有限会社TACと改称)代表・狩谷茂夫氏に、お願いをします。
しかし、たとえ部分再利用といっても、歴史的建造物の移築・復元の実際の工事には、その分野の知識と技術をもった専門家が、どうしても必要です。
前述の北海道開拓記念館・開拓の村の小林研究員の
「優れた棟梁の紹介」
という約束を果たしてもらう絶好の機会がきたのです。
いまでは私どもが「大棟梁」と尊敬する札幌の近藤建設社長・近藤龍夫氏を、小林氏が紹介してくれたのです。
その近藤棟梁と、北海道開拓の村学芸員・小林氏、建築家・狩谷茂夫氏、それに駒木氏と私と五人が、『旧金澤友次郎邸(伍楽園)』で初めて出会ったのは、まだ雪深い昭和61年2月でした。
『旧金澤友次郎邸(伍楽園)』は、建物は勿論、各座敷、建具も、そして現在弊店の蔵戸前に敷き詰めたケヤキ板の縁側も冷え切り、ものの数分も立っていることも出来ません。
しかし、棟梁はそんな冷たさを全く異にかいさず、まるで自分の孫の頭を撫でるかのように、冷え切ったケヤキ板を、杉丸太を撫でまわすのでした。
近藤棟梁は、東北以北でただ一人、文化財建造物保存協会から「上級技能士」として認定された方でした。
国指定重要文化財でクラーク博士ゆかりの北海道大学農学部第二農場
旧下ヨイチ運上屋の復原、
小樽旧青山家漁家、
伊達の旧岩間家農家
などの、移築復原工事専門の棟梁だったのです。
又、小林氏の目は『旧金澤友次郎邸(伍楽園)』に感嘆すると同時に、その目には素晴らしい歴史的建造物が解体され、全面保存ではなく、部分再利用しか出来ない事への無念さが浮かんでいました。
駒木氏は歴史的建造物研究の立場から、『旧金澤友次郎邸(伍楽園)』解体工事前には、北海道大学越野武研究室の越野武助教授以下角幸博助手や院生の皆さんに頼みこみ、手弁当での建物の実測調査が実施されます。
又、建築写真家の札幌・安達建築写真代表・安達治氏による建物撮影・写真保存もお願いするというように、歴史的建造物の解体の際の研究者としての姿勢を貫きます。
ここまでくると後は、次々に決っていきます。
弊店規模の建築工事では請負は一社で十分です。
が、以上の歴史的建造物部分移築の工事と新店舗区体工事と完全に分れながら同時並行工事という、面倒な工事でした。
弊店側の注文を快く引受けてくれたのは(株)堀井建商で、旧日本郵船小樽支店(前小樽市博物館)の修復・復元工事を数年間にわたり請け負った「大中中村組」が施工工事を孫受けし、三位一体、いや五位一体のチームが誕生します。しかし、簡単に工事はすすみません。
部材移築工事は、大まかに机上プランは立てれても、解体現場と新築工事現場での臨機応変な打ち合せが要求されます。
竹材の雨戸袋は、もったいないから店舗柱飾りに据え付けよう。
玉砂利は、そのまま店庭に持っていこう。
渡り廊下の天井は、店舗トイレ天井にしよう。
御影石の土台と屋根の瓦は、店舗アプローチに埋めよう。
数ある書院の銘木床板は、階段や上がりがまちにしよう。
板戸も、もったいないからそのまま店舗納戸のドアに利用しよう。
と、近藤棟梁を始め、建築家狩谷氏、駒木氏、私の頭のなかに、数限りなく使い道は湧いてでてきます。
大中中村組の大工さんも負けてはいません。
移築部材のなかから、いい杉材をちゃっかりキープしておき、その部材は落成寸前には、神棚に化けるのです。
しかし、内部内装に歴史的建造物の部材を据え付けるには、素晴らしい部材も切り縮めたり、捨てる場面が出てき、まよいに迷います。
いざ、切る決断を下し、切断しようとすると数百年たった部材は石のように固く、「ノミ」は折れ、「ノコ」の目は欅部材一枚切るだけで潰れてしまいます。
まるで『旧金澤友次郎邸(伍楽園)』の内部部材が、切断されるのを拒否してるみたいに。
そして、先代社長が裸一貫で築いた、その籔半の唯一残った石蔵を何とか残せと、お客様からも励ましのお電話・お手紙をいただきます。
が、現行の建築基準法によると、不特定多数のお客様が来店される商業地域にある耐火建築物としては、石造倉庫は認められないのです。
だからと言って、小樽運河保存運動をやってき、市民運動として歴史的建造物の保存・再生を訴え呼び掛けてきた蕎麦屋の店主が、自ら石造倉庫を壊すなど出来るわけがありません。
設計の狩谷氏を先頭に、二ヵ月小樽市の建築指導課にかよいます。
私たちの情熱にほだされ、法律一辺倒で石造倉庫を壊すことに忸怩たる思いを実はもつ建築指導課の皆さんの「指導・助言」で、何とか弊店石蔵は壊さずに建物に組み込まれる事になります。手探りしながらの工事でもありました。
様々な困難を一つ一つクリアしながら、昭和61年8月7日、籔半・新店舗はオープンの日を迎えます。その日、近藤棟梁がわざわざ北見の山林から、水の神様が宿るという「ミズキ」という木を切出してきて、石蔵小屋根組の上に「二度と火災にあわぬよう」にと「願」をかけて、据え付けてくれます。
そのミズキには、墨で黒々と書かれております。「大棟梁大乗り、
建築家大苦心、
請負人大弱り、
世話人大煽り、
施主 万万歳」と。
・・・『旧金澤友次郎邸(伍楽園)』の「籔半」への部分移築は終りました。
しかし、実はまだ『旧金澤友次郎邸(伍楽園)』物語は終りません。『旧金澤友次郎邸(伍楽園)』の調査に最初から携わり、母屋部材を籔半に移築転用する全工程を計画し、貴重なアドバイスをしてくれた駒木氏が、アドバイスだけでは我慢が出来なくなります。
氏は頭の中で、
「母屋は何とか再利用が出来た。しかし、素晴らしい『和洋折衷洋館』は、取残されたまま解体撤去される運命になってしまう」
「シンプルで大胆な漆喰蛇腹、ビクトリアンタイルとローズオーロラの大理石暖炉、重厚なカーテンボックス、天井の中心飾りがユンボでこわされるのだまってみるのか」そうです、七ケ月もの間、伍楽園・旧金澤邸解体工事と付き合ってきたのです。
「待てヨ、自分の住宅としてはどうだろうか」
と、魅力的で危険な考えが駒木氏の頭の中を駆け巡ります。
「解体移築復原費用で、りっぱな建売住宅を購入してもお釣りがくるんじゃないか」
「古い家を移築しても冬は寒くてどうしようもないゾ」
と忠告する仲間もいます。
迷いに迷う駒木氏の耳もとに、それとなく近藤棟梁も一言、
「オマエラ、オレの小樽の親類だァ。」
憎い言葉です、タマリマセン。
・・・ 私もツイつられて、
「解体費用なんざァ、男の道楽だと思えば安いもんだァ。」
自分事でないと気が大きくなる悪い癖がでてしまう。駒木氏はついに敢然と決断します。
建築史の研究者はイチイチ理由づけをします。
「洋館の建築的価値が高く、保存のために奔走してきた自分、建築史を研究する自分の立場から、住宅にする。」
と。
ここでも、弊店と同じく。
復元再生の計画を駒木氏、
設計管理を狩谷氏、
大工技術は近藤棟梁、
ところ代わって煽り役・籔半店主
という再度のチームが作られます。昭和62年八月、籔半店舗竣工から丁度一年後、ついに「駒木邸」が完成します。
こうして『旧金澤友次郎邸(伍楽園)の洋館」は見事に小樽は最上町に復元再生されます。
こうして、『旧金澤友次郎邸』は母屋と洋館部分は離れ離れにはなりましたが、小樽で再生・再利用されました。
よくこの『旧金澤友次郎邸解体移築大作戦』にかかわった人々で飲み会が開かれます。 駒木邸の暖炉には近藤棟梁がマキをわざわざ札幌から持ってきてくべられ、赤々と燃える暖炉の前でワインやウィスキーを組み交わし、二次会は弊店籔半の蔵戸前の炉を囲み、鉄瓶でカンした日本酒を組み交わし、工事のよもやま話に花をさかせます。
あたかも同志の集いともいえます。
いい仲間です。
一生の友人です。
一日の営業が終わり、お客様がお帰りになり、暖簾が仕舞われ、ソバ釜の火が消され、スタッフが一人一人と退社します。
蔵戸前の炉端に座り、真っ赤におきた炭火でチンチン鳴る鉄瓶、それで澗した熱澗を夫婦で楽しむことがございます。
まるで、『旧金澤友次郎邸』の部材が、
「お客様は喜んで帰られたか」
と、話しかけてくる声が聞こえます。華やかな時代の熱気やエネルギーをたっぷり吹いこんだ白鳥家の石蔵が、
「商売に励めよ、頑張れよ」
と声をかけてきます。
『旧金澤友次郎邸』、『岡田邸』そして『白鳥邸』の代々の所有者の商売にかけた心意気を何か吸収した気分になります。
歴史的建造物とは、本当にそこに住み、生活し、商売を営む人間におおげさでなく何かを語りかけてくるのです。
『伍楽園・旧金澤友次郎邸』はその歴史の後半、碁会所として、又小樽商大の学生さんの下宿として活用され、その思い出を持つ多くの方々が解体を惜しまれたと、工事期間中に新聞で報道されました。
全面保存は、弊店の力では残念ながら出来ませんでしたが、『伍楽園・旧金澤友次郎邸』の内部は、かなり復原できたのではと思う所存でございます。
どうぞ、御遠慮無く御観覧いただければ幸いでございます。1986.S61.08.07 新装開店時の弊店「お品書き」から転載。
この人と 出会えたからこそ
籔半の蕎麦屋空間がある
道内の歴史的建造物の復元工事に
多大なる功績を残した
名工 近藤龍夫棟梁

この歳になり、帰樽して33年が経った。
蕎麦屋家業とまちづくり市民運動の33年だった。どの商売もそうだろうが、弊店も同様で、《恩人》に支えられないでは蕎麦屋家業も、ここまでやってはこられなかった。
幸い多くの《恩人》が弊店を支えてくださり、それがどんな資産より大事だとスタッフや家族に常々言っている。
その中でも、 《近藤龍夫棟梁》は、間違いなく大恩人だ。一般の人がマイホームを持つとき、どんな設計会社なのか、どんな建築会社か、どんな不動産会社かは、大事な選定基準だ。
それが、商売上の店舗建築となると、一般の方々以上に決定的に重要になる。
なにせ、居住するだけのマイホームと違い、お客様にご来店を頂ける 店づくり建物づくりに成功しないと、生活が成り立たないのだから。どんな建築家による設計・施工管理なのかも大事だが、現実の工事を采配する《棟梁》と出会は、それ以上に決定的だ。
私にとって、現店舗の内装工事、それも新建築物に歴史的建造物の部材を移設するという大変な工事をしていただいた《近藤龍夫》棟梁との出会いがなければ、今の弊店はなかった。
札幌中之島の会社兼作業場兼自宅にお邪魔したときは、寡黙な棟梁で、棟梁をそっちのけで一緒にお邪魔した《駒木》氏や《小林》氏と話をしていたくらいだった。
しかし、
「おまえらみたい若いのが 古い建物を再活用するなん
ぞ、感心だ」
と、そう語る目を《近藤棟梁》はしていた。
そのアイコンタクトで、 現店舗新築の際の歴史的建造物の部材移築を引き受けていただくことが、決定したと言っていい。
北海道庁の「北海道・開拓の村」への、道内各地の木造の歴史的建造物の移築工事をされた棟梁に、新しいコンクリート躯体に古い部材を据え付ける、建築会社が一番いやがる面倒な仕事を、快く引き受けていただいたのだ。富岡町にあった、明治の豪邸「伍楽園・旧金澤友次郎邸」の母屋部材を、弊店内装に移設する。
言葉でいうと簡単だ。
が、現実は現場で設計担当、工事担当、私らが、頭を抱え唸り迷い逡巡し、そして決断し、という連続だった。全ての部材を丁寧に解体し、養生することから一切が始まった。
そして、現店舗の
入口玄関から、
帳場周り、
トイレ、
蔵戸前、
蔵横座敷、
二階座敷・二階廊下
と、可能な限りの伍楽園・旧金沢友次郎邸の部材を移築した。この伍楽園・旧金沢友次郎邸の解体作業の間、マンション会社が周辺住民と日照権を巡って話し合いが続いていた。
私たちの移築のための工事が、周辺住民には「解体=即マンション建設工事」と誤解されては困ると判断したマンション会社が、解体工事ストップをいきなり現場に指示して来たことがあった。
あっという間に、近藤棟梁チームは引き上げ、解体現場には誰もいなくなった。
あわてて近藤棟梁宅に電話すると、奥様が、「主人は、明日から小樽はしばらく雨だ、と言ってます」
と。
天気予報は晴天続きなのに、近藤棟梁が小樽の天気を決める!!
若い私は、ただただ右往左往したものだった。
いい思い出だ。(^^)小樽の天気まで仕切ってくれ、すべての仕事を取り仕切ってた棟梁が
《近藤龍夫》棟梁
だった。
今、弊店でもっともお客様の人気の場所は、蔵戸前の空間!
近藤棟梁が、お弟子さんに手取り足取り教えながら、手がけてくれた空間、それが蔵戸前の囲炉裏空間だ。
近藤棟梁と出会えたからこそ、今、その《蔵戸前》という、あずましい蕎麦屋空間がある。
↑今から21年前の 1986年6月10日 旧金澤友次郎邸現場で解体工事最終日 近藤棟梁と大工さんと駒木先生と私。
21年前だった。
わずか、3ヶ月余りだったが、この《近藤棟梁》と一緒の時間を過ごせたことは、蕎麦屋親爺の誇りだ。
ただただ、蕎麦屋冥利に尽きる。
その近藤棟梁が、
平成17年8月、
逝去された。あれほど好きだった「焼酎」も呑まなくなった、とは聞いていたが、いきなりの訃報だった。
奥様も体調を崩され、葬儀はお身内だけで済まされた、と。
そして、本年平成19年8月25日、その棟梁を偲ぶ会が開催された。
近藤棟梁と関わった者、皆が《近藤龍夫》棟梁を送る、何かをしたかった。
幸い、「偲ぶ会」には近藤棟梁の娘さんご一家が来られると連絡が来た。
お孫さんも来られると聞いては、はりきらざるを得ない。
孫さんにとっては「寡黙な大工棟梁のおじいちゃん」でしかいなかっただろう。
が、その娘さんやお孫さんに、父であり祖父の偉業と功績を伝えることが出来れば、少しでも近藤棟梁への恩返しになる、と。↑北海道開拓の村の旧小樽青山家にしん番屋で近藤棟梁の偉業を確認しあう。
21年後の近藤棟梁つながりの四人。
左からアトリエTAC社長・狩谷茂夫氏、北海道開拓記念館主任学芸員・小林孝二氏、北海道職業能力開発大学校建築科助教授・駒木定正氏、そして蕎麦屋親爺。
近藤龍夫棟梁に合掌
2007.H18.08.26
弊店の現店舗は、昭和61年小樽市富岡一丁目にあった 、
蝦夷地、現在の北海道や東北からの物資は、もっぱら福井の敦賀、小浜の港を経由して上方に運ばれ、敦賀、小浜から陸路を経由して琵琶湖に入り、琵琶湖の交易船「丸子船」に荷物を載せ、京都、大阪へ運ばれたのです。
鰊漁 北前船とその船主は、幕末から明治にかけて西蝦夷地の日本海沿岸での莫大なニシン生産を背景に、黄金時代を築き上げます。
























