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 はじめに

 ・・・ブハブハ、しからば人間らしい人間とは どんな人間でありましょうかな。
 ・・・お答えはカンタンだと思いますが 念のために申し上げますと 人間らしい人間とは ネクタイを結び 靴を履き はたまたナイフとフォークをつかう それだけではござんせんぞ。
 人間らしい人間とは ともにたたかう友だちをみつけ ともにたたかう友だちを持っている人のことなのではないでしょうかな。

 《1969.4.4 ひょっこりひょうたん島初代大統領ドン・ガバチョの犯罪人引き渡し協定締結のための国連加盟可否の国民投票演説抜粋 》

 1969年、延々と続く会議をひとりを抜け出し、大学の近くの学生相手の食堂でおやじにチャンネルを変えてもらい、井上ひさし・山元護久作のNHK・ひょっこりひょうたん島の最終回1224回目を ラーメン・ライスを食べながら視て。
  懸賞金1千万ドルがかかったダンディ保安官をインターポールに引き渡すのが「ひょうたん島」国連加盟の条件で、しかし投票結果は加盟否決、その際の演説が前述の文章だった。 ドン・ガバチョの声・藤村有弘の明るい歌声、

《キョウがだめならあしたにしましょ あしたがだめならアサッテにしましょ あさってがだめならシアサッテにしましょ どこまで行ってもアスがある》

を、物まねで口ずさんで・・・40年が経った。
 ・・・旅は、終わったところから始めるしかない。

1974年昭和49年に帰省した。

 1月、 田中角栄首相が東南アジア歴訪に出発し、訪問先のタイ・バンコクで5000人の学生デモに包囲されインドネシア・ジャカルタでは反日暴動に遭い、 シンガポールで日本赤軍がロイヤル・ダッチ・シェルの石油タンク爆破し、
  2月、アメリカの新聞王娘パトリシア・ハースト誘拐事件がおき、ソルジェニーツィンが国家反逆罪でソビエト連邦を国外追放され、
  3月、ルバング島で小野田寛郎元少尉を発見され帰還し、
  4月、カーネーション革命でポルトガルの独裁体制が崩壊し、デニーズ日本上陸1号店が横浜上大岡にオープンし、サーティワンアイスクリーム日本上陸1号店東京目黒にオープンし、
  5月、コンビニ・セブン-イレブン東京都江東区に第1号店を出店し、ミスタードーナツ100号店がオープンし、インドが初の地下核実験を実施して核拡散は進み、アメリカの兄妹デュオ・カーペンターズの三度目の来日武道館公演に約40万通の応募があル騒ぎとなり、
  7月、ラーメンのどさん子がニューヨークに進出し、参議院議員選挙(七夕選挙)で、与野党間の議席差は7議席となり与野党伯仲状態に陥り、三木武夫副総理・福田赳夫蔵相が辞任し、
  8月、米連邦議会下院ではニクソン大統領弾劾可決をし、ウォーターゲート事件でリチャード・ニクソン米大統領が辞任し、ソウルで朴大統領狙撃事件(文世光事件)が勃発し、三菱重工業本社で時限爆弾爆発(三菱重工爆破事件)し、
  9月、 原子力船むつが放射線もれ事故をおこし、日本赤軍がオランダ・ハーグにあるフランス大使館を占拠(ハーグ事件)し、
  10月、 テレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』が放映開始され、佐藤栄作元首相にノーベル平和賞が贈られ、中日が巨人のV10を阻止し20年ぶりセ・リーグ優勝し長嶋茂雄三塁手が引退し、文藝春秋誌上で立花隆「田中角栄研究・その金脈と人脈」と児玉隆也「淋しき越山会の女王」により田中金脈問題がクローズアップされ、 このころから、田中辞任の空気が政界に拡がり、
  11月、フォード米大統領来日(アメリカの国家元首として初の来日)後、田中首相辞任を表明、12月 椎名裁定により、後継総裁に三木武夫が選ばれ 田中内閣総辞職し三木内閣発足し、ハローキティ誕生し、有吉佐和子『複合汚染』を朝日新聞に連載され、日本消費者連盟発足し、コーヒー専門店ブーム始まった、1974年昭和49年。

 ・・・私は、その1974年に、7年半の東京生活を終え小樽に帰省した。

 

 二六歳だった。
 東京生活での唯一の財産は、チッキで送ったダンボール一〇数箱の書籍だけで、国鉄小樽駅のホームに降りた私は、履き古したジーパンと歴戦で活躍したすり切れたジージャン姿の手ぶらだった。 

 小樽駅の改札を出て見上げたロビーの天井には、七年半前と同様まだ羅針盤があり、それを見上げながら駅から外に出ると、まっすぐ一直線に小樽港と防波堤が見え、荒れて白波が防波堤の上を走り抜ける、小樽人が言う「ウサギが走っていた」。
 実家は駅から5分。 
 まっすぐ帰るのは、まるで《敗残兵》だなと自嘲し、駅から中央通りを下り、運河に足を伸ばす。
 かつてウグイを釣り、ときには泳いだ運河。
 その小樽運河は、ヘドロが堆積し水面まで顔を出し、そこにカモメが羽を休めていた。
 運河の水際の路肩という路肩は崩れに崩れて雑草が生え、ありとあらゆるゴミが至る所に捨てられ、自然のゴミ捨て場となっている有り様だった。
  海岸線に沿って海を埋め立てたので運河に沿った道路は岸辺なりに湾曲し、歩を進めれば進めるほど眼前の景色は次々に変って行き疲れを感じさせないでくれ、東京の一直線のビル街のようにいつになったら目的地に着くのかという精神的疲労感などは無縁の運河だった。
 
 その運河にそって、何の装飾もない、切妻の美しい勾配屋根の石造倉庫群が、まるで大地の地中からそのまま生え出たようにまだそびえ立っていた。
 近代工業が生産する建築には絶対ない、
 ブルドーザーの力では造れない、
 コンクリートミキサー車の力でも造れない、
 クレーン車で鉄骨材を釣り上げても出来上がらない、
 機械力といったものに一切頼らない、機械ではなく全て人の手で築いたのだ
 と胸を張り、それはそびえ立っていた。
 その石造倉庫に、
 「帰ってきたか? これから小樽でどう生きるのだ」
と語りかけられ、いきなり、
 「帰ってきた小樽から、わが小樽か」
とひとりごちし、以来・・今の私がある。

 

 1948年昭和23年に生まれた。
 いわゆる団塊の世代というやつだ。

 1964年昭和39年に高校に入学した。
 前年1963年リリースのビートルズ「please please me」が日本でも流行した。
 ビートルズ=不良の時代で、小樽のレコード店ではすぐ面が割れると札幌のレコード店に買いにいったものだった。
 高校三年間、ビートルズをとるかPPMやブラフォー、キングストントリオのフォークをとるかで、喧々諤々。(^^)

 前年、わが家(店)にTVが初めて入り、ケネディ米大統領が射殺されたニュースが飛び込み釘付けになった。
 まだ民放TV局もあまりない時代、NHKの視聴するよりなかった。
 が、牧歌的な子供仕立ての「チロリン村とくるみの木」に辟易していたが、井上ひさしの名作「ひょっこりひょうたん島」が放映開始され、「サンセイドジョウ」が、「酸性土壌」であることを、ひょっこりひょうたん島の「博士」から教えられ、私は子供を「大人扱いしてくれる」番組と、夢中になった。。(^^)

 戦後20年、と騒がれ始める時代だった。
 高校入学した1964年は、第18回東京オリンピックが開催され、芥川賞に柴田翔『されどわれらが日々』が選定され、トンキン湾事件がおこり、PLOが設立された年だった。
 日本人の海外観光渡航自由化され(年1度、所持金500USドルまでの制限付き)、初代フォード・マスタングが発売されそのスタイルデザインに夢中になり、当時、美大生だった「大橋歩」が描く、アイビースタイルの恐ろしく足の長い若者を題材にしたクレヨン画表紙の「平凡パンチ」が創刊され自分の胴長を恨み、「ガロ」が創刊され、ビートルズとマイルス・ディビスが来日した。
 「シャボン玉ホリディー」や「夢で逢いましょう」、そして「11PM」が視聴率を稼ぎ、美空ひばり『柔』、坂本九『明日があるさ』、都はるみ『アンコ椿は恋の花』、ペギー葉山『学生時代』、青山和子『愛と死をみつめて』がヒットし日本レコード大賞をえた。
 

 そういう時代に大人になる準備を始めて、社会人になった途端の、1975(昭和50)年、第一次オイルショックで「低成長時代」つまり、
  「戦後は終わった」
という巡り合わせをし、そんな時代に未熟ながら精神形成をしてしまった世代ではある。
 
 まあ、世代的な括りなど好きではない。
 たまたま居合わせただけ、なのだ。

 間違いないのは、戦後民主主義の落とし子であったこと。
 ホームルームで、「多数決」概念を身につけ、勢いよくしゃべり大声のものが勝利することを覚えた。
 クラスメートは小中学校は、55〜60人近くで、体育館を細切れに仕切って教室とし、詰め込まれた。
 高校に入学しても10クラス、1クラス50人以上だった。
 そのせいか、いきおい騒がしく、自然と群れたがり、人数が多いが故にまとめ役がいないと論議は空転するが、それを厭わなかった。
 が故か、成果ではなく達成感を大事にしたがる、とよく言われる世代なのである。(^^)

 戦後の高度経済成長時代の最中だった。
 その意味では、高度経済成長の時期に大人になる準備をしその一〇年後、1975年昭和50年に第一次オイルショックによって低成長に転じ「戦後」が果てたと思われた頃に、大人としての精神を形成させられた世代ではある。

 

 

 子供時代と言えば、小学生高学年から脊椎側湾症になり腰から首まで鋼入りのコルセットで締め付けられ毎日プロテクターを身に纏うという状態で体育授業は見学組となり、仲間から野球の時だけはキャッチャー専門で声がかかるだけだった。
 身体を動かすことが取り柄の成長期に、深い影をおとした。
 小学生高学年から中学時代の写真に笑顔のものはない。

 戸外で遊ぶことから室内でプラモデル作りと深夜放送のリスナー三昧の子供だった。
 弟はうらやましいくらい外に遊びに行き、自分は家と店が世界だった。

 自然、大人の世界を垣間見る時間が多くなった。
 父が裸一貫で公務員から脱サラして膨大な借金をして蕎麦屋を開業したこと、銀行は長大重厚産業や地域大手企業には融資をしても小店に簡単に融資はせず、それを得るには接待が全てであること、資金を融通しあえる友人関係が大事なこと、「カネが全てではないが世の中の90%はカネで解決できる」と酔っていう父親をみて育った。
 JRの前身国鉄駅前の一等地で商売は繁盛しても、店舗土地を当時としては膨大な額で借金返済で資金繰りは火の車。
 帰省し蕎麦屋の後継になって、開業当時の話を父に聞くと、
 「不動産の購入のタイミングは相手が売ると言ってくれた時こそ買い時なんだ。高い云々などとはたりが言うが、躊躇い購入のチャンスを失ってきた同業を一杯見てきたらそんな判断はゴミだ」と。
 これが、戦争を生き抜き、戦後裸一貫で商売を興した世代の発想だった。
 しかし、毎日資金繰りで夜の宴席にでて不在の店主をカバーする母は大変で、泥酔して深夜帰宅する父と激しい夫婦げんかは毎晩。
 泥酔し母の非難に怒る父をなだめ寝かせる毎晩で、昼間の威厳ある父と酔って本音を漏らす父の両面を、大人の両面を中学で学んで育った。
 店の資金繰りで借金の保証人になってくれた父の高校時代の先輩である取引業者が店にきて酔い、私に肩を揉めといい、母が顔を蒼白にし、私は平然と揉んでやり、営業が終わって母が一人帳場で泣いていたが、当の本人は、自然と尊敬と侮蔑とが入り交じった大人を批判的に眺める中学生になっていた。

 そのような中学生が高校に入学した。
 中学とはうって変わって教師を密かに軽んじる高校生になっていた。
 当時の

      

 

 

 小樽運河保存運動は、自分の人生にとっては二度目の大きな政治経験・大衆運動経験だった。
 一度目は、自分のような一九四八年(昭和二三年)生まれが前後する、通称「団塊の世代」と呼ばれる層が大なり小なり経験した、一九六八年(昭和四三年)をその開始とする、あの全世界の怒れる若者の政治運動であった。
 それは日本に発し、アメリカに飛び火し、それからヨーロッパへと爆発的な速さで国際化し、各国間で互いに反響誘発しあいながら、反戦平和から学制改革要求へ、そして大学占拠へと一気にエスカレートしていった。
 したがって、それは個々の部分的不満から生まれるものではなくて、完全にあたらしい、世界共通の性格を持った国際的な学生運動であり、世界が到達した新しい現状から発し社会体制全体に挑戦するものであることをしめした。
 この国際的な学生運動の拡大とエスカレートの激しさは、何か新しい雄大な時代への予感にふるえながら、目覚まされることを待ち受けている若い世代が、世界中いたるところに、そして自分たちの周囲に、だれもの回りにもいることの証左だった。
 当時、日本は敗戦後の終始無政府的な国民生活のなかで、国民のエネルギーと能力の途方もない浪費と消耗にもかかわらず、戦後二〇年そこそこで過去のすべてを手工業と思わせるような巨大な発展をとげ、巨大産業と巨大科学技術を生んだ、と思われた。  そのすさまじい生産力と、さらにそれを出発点として今後それこそ天文学的加速度で爆発的に発展する可能性と強制をもった生産力と、ところがそれに反比例していよいよ卑小化しアナクロニズム化した生産関係、そこからくる社会全体の矛盾が生み出す精神的アンバランスは、若い世代にとっては耐え難いものに映って当然であった。

 その年代は、日本における高度成長の最頂点的時代であった。
 そこでは、私企業のための利潤、つまり金儲けが唯一絶対の至上命令となっていた。
 どこをむいても貴重な人間の能力とエネルギーの大消費があった。
 そこには雄大なアイディアもなければ、魂を勇躍させる崇高な理想もなかった。
 偽善を透明な薄い膜で包んだ、ばかげきった社会に、若い世代は胸がむかついていた。

 この滑稽なまでにアナクロ化した体制、暴力以外に何の権威もない旧体制を、もっと簡単明瞭に合理的に創り直したら、生産と文化は、横へも未来へもそれこそ爆発的に奔流し出すだろう、というはっきり意識されないまでも毎日目撃する現実に支えられた予感が、当時の学生の意識の中に芽生えていた。
 ことにものすごいスピードで発展する最先端の学問に、明日の世界を垣間みることのできるいわゆる学生層は、自分でも想像することが出来ないルネッサンスを内に感じながら、心を躍らせるものといってはひとかけらもない、退屈で卑小な現実の前に無惨に即頭しなければならないことに、そしてこんなばかげた状態をいつまで存続させるのかという、小さな小人の世界とくだらなさにうんざりして、大きく背伸びし、そのちっぽけな世界をぶち壊さないではいられない、ガリヴァーの衝動を感じていた。
 内容から規模からいっても古代のアレキサンドリアやボローニャの大学のような国際的な豊かさをもった大学でなくては、そしてそこで鍛えられた知識と才能をフルに生かすことのできる、それにマッチした雄大で健康な社会ではなくては、彼等は伸び伸びと息をすることも生きることもできないという気分があった。
 しかし、現実はどの私立大学も公称定員六〇名の学科が実は一二〇名のスシずめ教室であり、日大が筆頭だったが私の通学する大学もスポーツに名を借りた体育会系右翼学生の一元的支配が貫徹する暴力装置がむき出しの状態であった。

 このプチ・ブルとかインテリとかと白眼視されてきた学生達の反乱は、賃金奴隷だとか人間疎外だとかいう言葉の一面的な意味だけで片づけていた、想像力の枯れた学者や理論家たちの頭には、理解を越えた無縁の謎であった。

 そしてこの学生たちの存在は、体制が違うとされた共産圏といわれていた勢力圏でも登場した。
 チェコ・プラハの民主化を「人間の顔をした社会主義」という、共産圏といわれた国家の人たちの口から発せられたこの言葉が、まるではじめて聞くように非常に新鮮に感じられた、この矛盾した言葉はそこでの生活がどんなに非人間的なものであったかを、全世界に露呈した。
 ソ連とその官僚達は貧しくみじめなロシアを社会主義に引き上げることができなかったので、社会主義をロシアの悲惨さまで引きずりおろした。
 そしてこの泥まみれに汚された社会主義のイメージをするどく告発したのがチェコの若者達であった。

 ・・・しかし、その全世界を席巻した学生運動は全世界的に挫折した。
 とりわけ日本では、悪無限的な憎悪の増幅しか意味しない「内ゲバ」という悲惨な堕落的結果として。